【日々の活動】「おいしい」までの過程
皆さん、こんにちは。
本日5・6時間目、ゆめの森は二つのグループに分かれ活動を行いました。
一つは、大熊の苺工場ネクサスファームでの花の摘み取り体験。
もう一つは、先日出荷した鶏の喫食体験です。
お陰様で、どちらの活動も実りある体験となりました。ご協力いただいた皆様、この場を借りて改めて御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
さて、本日のnoteでは、鶏の喫食体験活動をご紹介いたします。
5時間目、児童生徒はまず町役場に向かいました。
目的は、放射能検査の結果報告を聞くためです。
一人一人の口に入るもの。念には念をの検査です。ゆめの森一同は町役場2階の会議室に案内されます。少々緊張の面持ちで結果を待ちます。
「皆さんの鶏肉ですが・・・。」
シーンと会場を包む静寂。
「判定は、OKです。全く検出されませんでした。」
「イエーイ!!」
大熊町産業課の方の発表に一同拳を突き上げます。
放射能、マイクロシーベルト、ベクレル・・・。難しいことは分からないけど、自分たちの鶏肉が安全であることを確認し、歓喜の声を上げます。
最後に「放射能検査結果報告書」を代表が受け取り、帰路に着きます。
戻る道すがら、歩きながら改めてデザイナーが問うています。
「『本当のいただきます』ってなんだろうね・・・?」
あーでもないこーでもない、さまざまな意見が出されますが、一同納得の答えは杳として出ません。
その頃、ゆめの森家庭科室では・・。
保護者の皆様と、デザイナーとの協働作業が行われています。
胸肉、もも肉、ささみと分けられた部位を一口大に切り分け、唐揚げと大葉のはさみ揚げを制作中です。
保護者、職員の垣根なく、和気藹々、談論風発、料理が出来上がっていきます。
狐色に上がった唐揚げを、白いお皿にこんもり盛りあげ、お迎え準備が完了です。
給食室には、取り皿が並べられ、後は子供の帰りを待つばかり。
と、産業課からOKをもらった児童生徒が意気揚々戻って来ました。
「うまそう!」
家庭科室のガラス扉に児童たちがへばりつき、こちらの様子を窺っています。
「ほら、こっちはいいから手を洗って、席に着いて待ってて!」
デザイナーの注文に、渋々ガラスから離れ、席に戻ります。
「みなさま、お待たせしました。それではお料理をお持ちいたします。」
恭しいデザイナーの掛け声で、保護者の皆様がお皿を手に料理を運んできます。
「おおーー!」
待ちかねた児童たちから、拍手と歓声が上がります。
大切な鶏の、美味しそうな料理。
食べてなくなってしまう前に、愛しむように唐揚げを各自ipadで写真に収めます。
「本当のいただきますが言えるようになりたい。」
その思いから始まったブロイラーの飼育。
さまざまな過程を経て、「いただきます」の瞬間がやって来ました。
ゆめの森の家畜班代表が、立ち上がります。
「手を合わせてください。感謝を込めて言いましょう・・・。いただきます。」
「いただきます!」
いつもの給食より気持ち大きめの「いただきます」が響きます。
「んー、うまい!」「おいしい!」「いくらでも食えるわ。」
反応は様々です。美味しさにテンションが上がるもの。黙々と味わうもの。
一人一人、様々な思いを胸に料理を口に運びます。
保護者の皆様もデザイナーも同じ食卓を囲み、子供と一緒に味わいます。
一人のデザイナーに声をかけてみます。
彼女はこの活動に対し誰よりも熱意を持って取り組んでいました。
冬休みには自宅で雛を預かり、きっと思い入れは誰よりも強いはずです。
「どう?」
「・・・なんか・・複雑です・・。なんか・・よかった・・。うん。」
心なしか瞳が潤んでいるようにも見えます。
文字化すれば、大した内容のあるコメントには見えません。
しかし、言葉と言葉の間からは、内から思わずこぼれ出る感情の発露がありました。情に流されやすい私は、その様子に鼻の付け根がしみるようです。
最後に大笹農場の髙橋さんが児童生徒に語りかけます。
「みんな、今回の活動を続けてほしいです。一回やって、はい終わりじゃもったいないです。今回は、鶏だったけど、食べ物は鶏だけじゃないよね。牛も豚も、野菜だって、それを生産している人がいて、それを運ぶ人がいて、売る人がいて、料理を作る人がいる。いろんな人が毎日働いているから、みんなは食べることができるんだよね。そこをみんなで探求することも、本当のいただきますになるんじゃないかな・・・。」
今回、このnoteは冷静に書きました。(つもり)
いつもは私の主観で、力んだ筆致で書くことも多いですが、今回は足がすくみ、力が入りませんでした。
今日一人一人の胸に去来ものは、一人一人異なります。
それは甲乙つけるものでもありません。
ただ、唯一願うとするならば、去来した「何か」を、静かに凝視してほしい。
それだけです。
「なんとも思わなかった。」「ただ、うまかった。それだけ。」
もちろんそれは、いけない事でも劣る事でもありません。
ただ、そう思った自分を静かに見つめる時間があったなら、素敵な事だと思います。
「何か」を思う私が確かにいて 同様に「何か」を思うあなたが確かにいる
「どこか」の「誰か」も同様に「何か」を思って 確かな今が作られる
会ったことも 話したこともない
「どこか」の「誰か」が 確かに「何か」を思うから
確かに私は 今を 生きることができる
髙橋さんの言葉を噛み締めて、拙い文を書いてみました。