【日々の記録】エンジンの語源を紐解けば
皆さん、こんにちは。
唐突ですが、毎度の自分語りです。しばしお付き合いを。
私が学生だった頃。アパートを探そうと池袋にある不動産屋を訪ねました。対応した50がらみの店員が私に聞きます。予算は?と。山出しだった私は無邪気に3万円と答えました。群馬の実家近辺ではそのくらいで家賃で若い世帯が普通に生活している話を耳にしていたので。すると、50がらみは鼻で笑って言いました。
「そんなんじゃ、車の駐車場すら借りられんよ。」
そうして手元の帳面をパタリと閉じ、奥へ引っ込んでいきました。
何も言えず、私は席を立ちました。そう、門前払いをくったのです。今は昔の青春時代の思い出です。脚色はありません。
私は東京に長く住んでいましたが、移動手段はもっぱら自転車と地下鉄でした。「駐車場3万円」。この事実は、私の車のイメージを一変させました。車は「裕福な人の乗り物」であると。時々真剣に考えました。なぜ、都内にはこんなにも車が溢れているのか・・。乗っている人を品定めすれば、人品に自分と大きな隔たりがあるようにも思えません。しかし実際に彼らは車を所有し乗り回している。この事実が本当に不思議で仕方がありませんでした。
それから時を経て、私は田舎に帰り、やがて車を所有しました。裕福になったからではありません。必要にかられ、やむを得ず無理をして所有しました。東京から離れ、やっと気づいたのです。ほとんどの人は裕福だから車を買うのではなく、車がなければ生活できないがゆえ、車を所有せざるを得ない、という現実を。30代も後半のことでした。
ここ大熊でも、事情は同じです。私は当然のように車をもち、車で通勤しています。
さて、本日も車を走らせ、ゆめの森に到着すると、駐車場にはバスが一台横付けされ、冷たい空気の中白煙をあげています。おやと思い、横を過ぎれば、5、6年児童たちがゾロゾロとバスに向かってきます。
児童の列で、ようやく私のエンジンがかかります。あ、そうだ。今日は車工場の見学だ。
「おはようー!」幾分眠気まなこの私の横を、児童たちはすでにエンジン快調、唸りを上げて行きすぎます。
「いってきまーす!」どの顔もはつらつとしています。
向かった先は、日産いわき工場。バスに揺られ1時間の旅路です。9時過ぎに到着すると、首元スカーフ麗しいお姉さんが出迎えてくれます。
「皆さん、おはようございます。日産いわき工場にようこそ。ゆめの森の皆さんが見学者1万人目のゲストです。今日で一万人達成です!」
なんだか幸先の良いスタートに、一同雄叫びを上げています。
昨日のnoteにも書きましたが、6年生のある児童は車が大好き。描くイラストも車、マイベスト本棚も車の雑誌、自らを「ドリフト族」と名乗ります。車工場!彼の興奮が伝播したのか、他の児童もいつも以上に元気です。
しかし一旦落ち着いて、まずは、お部屋でお姉さんたちのお話を聞きます。
「皆さん、ここ日産いわき工場で、何を作っているか知っていますか?」
「クルマでーす。」何を今更と児童が答えます。
「半分正解です。」車の半分?気色ばむ私たちにお姉さんが続けます。
「私たちの工場では、車全部ではなく、車のエンジンを作っています。」
エンジン。言わずと知れた動力装置。しかし、皆さん、その構造を詳らかに説明することはできますか。・・んと、なんかピストンが動いて、燃焼して、んと、・・ね?口ごもってしまいますね。そこで最初に動画を視聴し、工場のことやエンジンの仕組みなどを勉強します。それから工場内見学に出発です。
「工場内は、安全が第一です。歩いている時も曲がる際は必ず指差し確認をします。」
「右よーし!」お姉さんと一緒に実践です。はにかむ児童も多い中、6年女子の一人ががキビキビはっきり手際良くこなしていて、またまた新しい一面を発見します。「左よーし!」女児に元気よく先導され工場の一角に到着です。
ここはエンジンにネジで部品を取り付ける工程です。
「皆さん、エンジンは幾つの部品でできているか知っていますか?」
「一億!」「百万!」「2000くらい?」賑やかに下手な鉄砲を撃ちまくって、ようやくニアピンです。
「1500です。この中の部品一つ欠けてもエンジンは安全に働きません。」
聞けば完成したエンジンは全てテストにかけられ、100以上の項目を全てクリアできなければ、出荷できないとのこと。
「え、じゃあ、99点のエンジンはどうなるの?」
「解体され、再利用できるものはしますが、それ以外は廃棄です。」
99点でも解体、廃棄!思わず自身をエンジンに重ね血の気が引きます。その後実際に部品の取り付け体験です。
もし、少しでも失敗したらこのエンジンはダメになる・・。緊張で顔が引き締まります。・・もちろんこれは見学用のサンプルキットで、児童がネジを閉めたエンジンが市場に出回ることはないでしょう。しかし、児童は真剣です。例の車好きの児童も凛々しい顔で工具を握っています。ダダッと一撃。見事パーツが固定されました。小さく安堵のため息を漏らします。
街で見かける車が、いかに厳しい基準と、確かな技術で支えられているかを全員が身をもって感じることができたようです。
見学後の質問タイムは、いくつも手があがり、こちらも嬉しい悲鳴です。5・6年生となれば少しはスカしたりしたくなるお年頃。普段こちらが質問を投げ掛ければ「別にぃ〜。」なんてつれない態度を取られることもあります。しかし、今日は「はい!はい!」がなかなか止みません。
その後、工場のショールームで憧れの「GTR」「フェアレディZ」とご対面。車を前に児童の蘊蓄が止まりません。
「やっぱり、好きなんだな・・。」デザイナーが二人で目配せし合っています。
好きこそものの上手なれ。お馴染みのこの言葉を奥歯で噛み締め工場を後にしたのでした。
エンジンの語源はラテン語のインゲニウム。意味は「生まれながらの才能」だそうです。誰しも人は「生まれながらの才能」をもっています。それに自身で気づき研磨することと同等に、その才能を見出す人との出会い「縁」が重要だと昨日ここに書きました。
では、生まれながらの才能に自分でどうやって気付くのか、それの答えは当然、自身の「好き」に忠実になることとなりそうです。「好き」の触手が動く方向に必ず才能が埋まっている、そう信じます。
では、なかなか好きが見つからない。「やりたいこと」なんて何にもない。
そんな時どうすればいいのでしょう。かつての私も確たる信念もなく時間を重ねました。しかし、今わかることは「それでも大丈夫」ということです。
冒頭の話に戻ります。車なんて富裕の象徴と思ったいたものが、実は生活の必要に駆られた単なる必需品だと思い直したように、実生活の中で「必要に駆られ」身につける能力も多いのです。必要な時、必要なものを私たちは学びます。転ばぬ先の杖ではなく、転んでから杖を探しても全くおかしくないし、その杖が自分のエンジン(生まれながらの才能)である可能性も十分にあり得るのです。焦る必要はありません。・・・ただし。
自身のエンジンも、車のエンジンも、要はほったらかしが一番良くないようです。
「好き」や「必要」があってもなくても、こまめに動かしてみる習慣が肝要。「二つのエンジン」に共通します。
決定的に違う点は、人のエンジンは満点でなくとも、十二分に市場で通用するということです。ここまで思い至り、欠陥品でも、解体され、廃棄されない我が身の福徳を噛み締めて、薄汚れた愛車をそっと撫でるのでした。