【日々の記録】楽しさに賭ける。
皆さん、こんにちは。
今日のゆめの森note担当はおじさんライターです。今日もしばしよもやま話にお付き合いを。
日々子供の話に耳を傾けていますと、世代間に横たわる峻険を切々と感じるのがこの老ライターの特徴です。ゲームの話、音楽についてなど。同じ教室に呼吸をしながら、時に別の惑星に来たようで、薄ら笑いで話を聞きながら、心の中では冷や汗です。
ではマンガはどうでしょう。私の学童期は藤子不二雄。言わずと知れたドラえもんや、怪物くん。ここの辺までは共通の話題を楽しむことができます。しかしその先ドラゴンボールあたりから次第に雲行きが怪しくなり、ワンピースなどは五里霧中です。決してマンガ嫌いというわけではありません。読みたいとも思うのですが、広大な世界、どこから手をつけていいのやら水先案内がなければ一歩も進めません。・・いや、告白すれば「電車内で大人がマンガを読むのは褒められることではない。」そんな古い教育の残滓が今も私の心にこびり付いて、心を閉ざしているのです・・・。
若い世代には信じられぬでしょうが、「漫画は悪書」という不遇の時代が確かにマンガにはありました。マンガは子どもに悪影響を与えると言って排斥されたのです。なんと東京では漫画の焚書まで行われていたのです。いつの時代の話とお思いでしょう。明治時代?
いいえ。
調べて見ますとなんと、1955年のことです。PTAなどによって行われた「悪書追放運動」がピークに達し、校庭に集められた「鉄腕アトム」などが燃やされたというのです。69年前、しかも手塚治虫の作品が焚書の憂き目に遭っていたというのは驚きです。
それが今はどうでしょう。
マンガはクールジャパンの一つの柱として世界から注目を集める存在です。
悪書から誇れる日本文化へ。太閤秀吉もびっくりの立身出世の物語です。ここに至るまでの先人の尽力に頭が下がります。
もちろんゆめの森メンバーもマンガが大好き。中にはマンガ家への夢を公言する生徒もいます。彼女の実力は、もはや「夢見る」次元を凌駕し、プロに匹敵する領域です。彼女の武器は、ケント紙にインクペンではなく、ipadです。アプリを使いこなし無数のキャラクター、イラストを生み出しています。皆様はご存知のかもしれませんが、彼女のオリジナルイラストがプリントされたエコバックはゆめっこカフェでも販売され、大人気商品となっております。「収益を上げている」という観点では、もうすでに彼女はプロの一員なのかもしれません。
さて、プロのマンガ家を擁する我がゆめの森に、今日はなんと二人のプロのマンガ家さんがご来校されました。能政彩乃さんと、坂本ゆきこさんです。
9年生を対象にした「マンガワークショップ」。9年生と二人のプロ。どんな共演になったのでしょう。
1時間目。私がこっそり創作工房に入るか入るまいか逡巡していると、二人のプロが温かく手招きして、椅子を引いてくれます。
「ボサボサ頭に険しい表情」。そんな私のマンガ家プロトタイプを破壊する(いつの時代?)柔和なお顔で迎え入れてくれます。
「ワーク」はすでに始まっています。
どうやら今日のテーマは「4コマまんが制作」。わくわくを抑え、9年生の近くにちょこなんと腰掛け、マンガ家先生の言葉に耳を傾けます。
「最初から、どんなストーリーにしようか難しく考えなくてもいいです。日常で心が動いた瞬間を思い出して見ましょう。例えばね・・。」
先生が胸キュンといった表情の付箋に書かれたイラストを見せてくれます。
「これ、どうして胸キュンしたのか、理由を考えます。私の場合はね、夫が料理を作ってくれたから。もっと考えると、この日はといっても忙しくてケンシローモードだったのね。(北斗の拳の主人公のように目まぐるしくキーボードを打ち込んでいる状態)忙しくてイライラしているときに、夫がそれを察して料理を作ってくれた・・。だからいつも以上に嬉しくて・・。」
その時の一つ一つの状態がイラストとして付箋に書いてあります。胸キュン、夫が料理を差し出す様子、ケンシロー、忙しい。
「この四枚の付箋を縦に並べると・・・。ほら!」
生き生きとしたコミックエッセイが完成します。
「おおー!」「なーるほどね!」生徒、教員から一斉に驚嘆の声が漏れます。
先生の微笑ましいエピソード、優しい画風に心がほっこりします。
「最初の場面から、次、次って考える方法、演繹法もいいですし、最後の場面から、どうしてそうなったって順で考える帰納法もいいですね。私のこのマンガは帰納法で考えました。嬉しい顔から、どうして嬉しかったのかその理由を遡って考えたんですね。」
わかりやすい説明に9年生もうんうんと頷いています。
「では早速やって見ましょう。昨日なんか嬉しかったこと、悲しかったことはありましたか。そこから理由を遡って付箋に書いて見ましょう。」
この技法のポイントは付箋に書くことです。並び替えも自由ですし、ケント紙を前にした緊張感もありません。敷居が低く気軽な気持ちで取り組めます。その空気を察してか、先生が加えます。
「楽しいと感じるポイントは人それぞれ。だからまず自分が楽しんじゃいましょう。」
顔をあげ、先生を見ればニコニコしています。なるほど楽しそうです。お二人の先生は何事にも楽しさを見つける達人のようです。
時間制限の中、9年生、そして私たちも制作します。時間制限も、自分を追い詰めるというより、短い時間で気軽に書くことを目的としているようです。
みんな、おしゃべりしながらも時間内に完成。早速「いっせいのせ」で回し読みです。
「やっぱうまーい。」「このイラスト萌える〜!」
9年のマンガ家に賛辞の声が向けられます。
「こっちも見て!かわいい!」「この話笑っちゃう!」
もう一人の9年生。彼女の人柄が滲み出たような優しい笑いとイラストにみんなニッコニコになります。
二人の個性が現れた素晴らしい作品の出来上がりです。ちなみに私の拙作は細かいところまでよく書けていると先生に褒めていただきましたが、
「なんか・・怖い・・。」二人の生徒の琴線には響かなかったようです。残念。
この作品の次は「明日」をテーマに挑戦です。
明日起こるであろうびっくり、ハッピーを一枚の付箋にし、理由を考え4コマにまとめます。
この頃には、9年生に加え、私らおじさんデザイナーももう夢中です。小澤マネージャーは楽しいな楽しいなとうわごとのように呟き、どうやらゾーンに入った様子です。かく言う私も同様。9年生だって同様です。いや、本当に楽しかった!
作品鑑賞後は、プロの先生に一人一人講評してもらいます。
「いうことないねー!素晴らしい!」そう褒められて、9年生マンガ家もすまし顔でありながらもやはり嬉しそうです。
その後の質疑応答タイムでは、引いた絵にするのかアップにするのか、映画のカメラアングルのような高度な話で生徒と先生が盛り上がっています。
私はといえば、話は上の空で、先ほど「ゴッホのよう」と褒められた言葉を心で反芻し、「そう私はヴィンセント。」と一人悦に入っています。
先生のおっしゃる通り、楽しいポイントも人それぞれ。絵の味も人それぞれ。自身の楽しいを追求した結果どれも面白く、素敵な作品になりました。
みんな違くて、みんないい。金子みすゞを地でいく時間となりました。
能政彩乃先生、坂本ゆきこ先生、本当にありがとうございました。
漫画のように一時代不遇をかこったものが隆盛し、また、かつて権勢を謳歌した何かが、時代とともに忘れられ凋落する・・・。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
中学時代学校で暗唱した平家物語の書き出しが蘇ってきます。同様に
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
方丈記冒頭です。
この二つに共通するのは「無常感」。
声を張り上げ教師が板書し、言われるがままその語句を書き取った学生時代。
「そこに主体性があったのか?」今ならゆめの森デザイナーに糾弾されそうです。しかし、その時間が無駄であったとは思いません。主体的にではなかったにせよ、私たちがあの頃暗唱した言葉は、今も自身の背骨として自身の思考を支えている。そう自負します。古いと嗤われても、主体性以上に暗唱すべきが優っていたのです。私自身もそう信じていました。しかし時代は移り変わり・・。
ただ、もう一度考えて見てください。
今の世の中の変化の速さはどうでしょう?まさに「無常感」の時代です。冒頭話した私と児童の間に横たわる峻険は今後ますます高くなっていくはずです。未来予測の難しい現代、児童生徒にどんな力を涵養させてあげるべきなのか。この難しい問いは常にゆめの森に突きつけられています。古いものが新しくなり、新しいものは古くなる。これ如何?常に全てが刷新され続ける現代、禅問答のごとく答えは杳とでません。
しかし、今日みんなとマンガを書いて感じたこと。
それは、「楽しい」が勝つということ。
「正しい」はいつか「正しくない」に変わります。反対も然り。価値観に絶対はありません。教育もこれまた然り。
ならば、私たちは「自分の楽しさ」という尺度だけを信じるしかないのではないでしょうか。
もちろん楽しい対象は刻々と変化するでしょう。ですがうちから湧き起こる楽しいという感情は減衰しない、そう信じます。
和気藹々、しかし銘々、マンガを描く眼差しに出会い、「楽しさ」一本に賭けてみたくなりました。