「知識」と「表現」
「おはようございます!!」
大きい声が本の広場から響いてきます。
力強い声に共振して大きな校舎が揺れるようです。
声の出所を辿れば、縦横に見事に育った欅の大木の如き一人の紳士が、ニコニコと子供達と向き合っています。
そうです。音楽家関口直仁さんが、学び舎ゆめの森にやってきました。
はて?関口さん?
そんな読者諸氏にご紹介申し上げます。
ここ学び舎ゆめの森ではオリジナル楽曲の作詞・作曲をはじめ、演劇の音楽監督を担っていただいています。「種を蒔こう」「私が始まる場所」「探しにいこう」・・。曲名を書き連ねるだけで、耳の奥に彼の美しい旋律が蘇ってきます。
関口さんが子どもたちに問います。
「みんな楽器って知ってるよね?ピアニストはピアノを、バイオリニストはバイオリンを、そう楽器を使って音を出す。じゃあ『歌を歌う』ときは、どんな楽器を使うかな?」
「ん・・・楽器?」
「・・からだ?」児童たちが答えます。
「そうだよね。歌を歌う時、僕らにとっての『楽器』は僕らの体なんだ。」
子どもたちはまだポカンとしています。
「ピアノをよく知らなかったら、ピアノは弾けない。バイオリンも同じ。そして、歌も同じなんだよ。自分の体をよく知ることが、豊かな音を作るんだ。」
歌うためにまず自分自身のからだを探究する・・。
知見に裏打ちされた言葉に、赤べこのように何度も頷いてしまいます。
早速関口さんのレッスンが始まります。
関口さんの言葉に誘われ、普段あまり意識しない「体の中」に注意を向けてみます。
声を出す時、体の中のどこが動くのか、体のあちらこちらに手を当ててみます。
「この辺が大きくなる。」鳩尾あたりに手を添える子供がいます。
「大きい声を出すとこの辺が疲れる。」足の付け根あたりをさする子どもがいます。体の構造は同じでも、その使い方にはやはり個性(癖とも言う)があるのでしょう。
今度は、重い物を持ち上げながら声を出してみます。
「せーのー、よっ!」
次に最後の音を伸ばしてみます。
「せーのー、よーーーー」
「どう?何か違いはあったかな?」
関口さんの問い掛けに、それぞれ新しい発見を口にします。
体の中に意識を向けることで、どうやら今まで気付かなかった「新しい自分」に出会えたようです。私自身も大きく息を吸って声を出すたびに、自分の薄皮がペリペリと捲れた感じです。
最後はティッシュを使っての「息息(イキイキ)バレーゲーム」です。
1枚のティシュが落ちないように、数人で息を吹き上げます。もちろん手は使いません。どれだけ長い時間ティッシュを落とさないでいられるか、その時間を競います。
「レディーゴー!」
児童生徒が一斉に力一杯息を吹き上げます。
口を尖らせ、顔を赤くしてみんな奮闘しています。
「あー、疲れたー。」
息を弾ませながらも、一様に笑顔です。
楽しみながら「声」を通して自分自身の体を探究する1時間となりました。
最後にもう少し・・。
文章の中で一口に「木」と表現しても、その「木」はどんな葉の形なのか、樹形、幹の様子など細部にわたってイメージが頭の中にあるかないかによって、文章の説得力が俄然変わってくる・・・。確かそんなことをある作家が書いていました。
文章に限らず何かを「表現する」ことにも同じことは言えそうです。
「何か」を知悉することで表現はより確かになります。
この世界というものをより鮮明に捉え、それを自ら表現し、伝えつないでいくためにはやはり知悉すること、つまり「知識」が必要です。新しい世界の扉を開く鍵は、常に「知識」です。
学校の本分はその「知識を得ること」であり、それがすなわち「学習」なのです。
・・ただし、「知識」と言ってもそれには「生きた知識」と「死んだ知識」があります。その二つの違いを精査する事なく、従来の教育を一方的に「知識偏重主義」と断罪したり、中には「もはや知識はいらない」と性急な結論を下すことは甚だ危険と言わざるを得ません。
関口直仁さんの音楽が、人の心を打つのは、彼の感性以上に豊穣な「知識」によるところが大きい。私はそう思います。