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【日々の記録】渾身は美。骨惜しみは醜。

皆さん、こんにちは。
本日も晴天なり。しばらく風邪でお休みしていた児童も、少しずつ復活を遂げ、今朝はいつも以上に賑やかな朝の会となりました。
幾分以前よりほっそりした顔で登校する復活組に、明るい声がかけられます。
「おかえりー!」「待ってたぞー!」
再会に歓喜する児童たちの元気な声に、こちらまで気分が上がります。
ちょっと想像してみてください。
もし仮に皆さん自身が風邪で長期間仕事に穴をあけ、寛解し、病み上がりの体を抱え職場に戻った時。「あ、今日はいるな。」の一瞥ではなく、「おかえりー!」と全身で表現してもらえたならば・・・。
1日のモチベーションがガラリと変化することでしょう。
一言の「おかえりなさい」。たったこれだけの事で気持ちが大きく上向きます。これに弾ける笑顔が伴えば、尚更でしょう。
しかし、たったこれだけのことをしばしば私たちは骨惜しみます。「大人がそんなテンションだったらうざい。」「変な人だと思われる。」最もらしい言い訳をこさえ、ちょっとの勇気や力を出し惜しみます。
「エネルギーは出せば出すほど湧いてくる。」
どこかで読んだ言葉を、朝の職員室で反芻し、私は一人目を閉じます。

5段跳べたよ。跳び箱記念日!

さて、ここ2〜3日。児童たちの会話の中に頻出する話題を一つご紹介いたします。それは「跳び箱」です。「馬跳び」とも言いますね。
昨日の帰りの会のこと。一人の児童が発表しました。
「今日、跳び箱5段飛べるようになりました!」
「いえぇー!」「拍手!」児童たちの歓呼の声。
「あなたが5段跳べたから 今日は跳び箱記念日」
昔のベストセラー本「サラダ記念日」をもじってデザイナーが混ぜ返す、そんなことがありました。

そして今日。さて、本日も誰かの「跳び箱記念日」となるのでしょうか。
3時間目。広い体育館に凛とした声が響きます。
「行きまーす。」勢いよくかけだした児童。目前には聳える跳び箱。えいやっと手をつくと反作用でひょいとお尻が持ち上がり、ひらり跳び箱を超えていきます。「イエーい!かんたんだよー!」得意顔でポーズまで決めます。
「いきまーす。」片手をあげ、次の児童が駆け出します。それっ、強く手をついたものの足に怯えが残り、体がついてきません。お尻が台の上にちょこんと残ってしまします。
「ああ、またダメだ・・。」一人の児童は4段目に苦戦中です。それでも繰り返し繰り返し挑戦を続けます。それっ、とん、ちょこん。また、失敗。

意識に体がついてこない。
意識と無意識の間で揺れるからだ。

みていると勢いはいいのですが、手をついて足が離れた刹那、やはり体が怯えていいます。「跳びたい」のだけれど「自分は跳べる」という強いイメージができていないのです。意識は台の前に、しかし体が台の後ろに取り残されています。意識下で自分を信じきれていない体のあり方です。
「跳び箱のどこに手をつけばいいんだっけ?」デザイナーが問います。
「前のほう・・。」自信なさげに児童が答えます。
「そうだよ!前の方にな、バーンと勢いよく手をつくの!そしたらお尻がついてくるから!」筋骨隆々のデザイナーが叱咤激励します。
再び挑戦。「いきまーす。」それっ、とん、ちょこん。また失敗。やはり体が怯えています。台の上に飛びついたスピードを恐怖で相殺しているのです。
突如、鬼のような声が空気を揺らします。筋肉逞しいデザイナーの声です。
「できる!できる!絶対できる!怖くない。思い切って飛んでみろ!」
鬼のようと形容しましたが、発した言葉の内容は力強い優しさに満ちています。跳べた子もまだ跳べない子も、ひたすらに挑戦を繰り返しています。筋骨隆々は、これまた「できる!」を繰り返しています。動き回る児童と静かに見守るデザイナーのコントラストを遠景に眺め、またもや頭の扉が開きます。以前読んだ幸田文の随筆「なた」の一部をここで紹介いたします。

鉈を持った一番最初は、風呂を焚くたきつけをこしらえる為からであった。こつんとやると刃物は木に食い込む、食い込んだまま二度も三度もこつこつとやって割る。「薪を割ることも知らないしようの無い子だ、意気地の無い様をするな」といって教えてくれた。おまえはもっと力が出せる筈だ、働くときに力を出し惜しみするのはしみったれで、醜で、満身の力を籠めてする活動には美があると云った。

幸田文「なた」より

幸田文(1904〜1990)は、明治の文豪幸田露伴の次女として生まれ、後年優れた随想、小説を残しました。幼少期より父露伴から「生きる美学」を徹底的に教え込まれ、それはのちの作品群に結実しています。この「なた」という文章は、父から娘へと生の美学が身体から身体へと伝承される様子を描いた随想です。ある評論家は幸田文を「日本の伝統的美意識の結晶」と評しました。ここで特筆すべきは芸能芸術の所作ではなく掃除、裁縫、食事など日常に息づいた生きる美意識を、身体から身体へ伝承している点です。読んでいると父露伴の気迫に時々こちらも息を詰めてしまいます。なたで薪を割る少女あやに傍で父は声をあげます。

薪割りをしていても女は美でなくてはいけない、目に爽やかでなくてはいけない。(中略)
二度こつんとやる気じゃだめだ、からだごとかかれ、横隔膜をさげてやれ、手の先は柔らかく楽にしとけ。腰はくだけるな。木の目、節のありどころをよくみろ。

幸田文「なた」より

なんとも凄まじい様子です。精神論ではなく、実に指示が細かく具体的です。
瑣末なことでも、力を出し惜しみするな。渾身で取り組むことに美しさが宿る。
幸田あやの文章に、身体性に重きをおいていた時代の気韻を感じてしまいます。
二つに割れた薪の如く、さっぱりした読後感がたまりません。

寄り道しましたが、跳び箱の結果はどうだったでしょう?
体育館から戻る児童が、餌を待つ雛鳥の如く我先にと口を開きます。
「クリアしたよ!」「もう6段跳べたもんね!」「最後ね、5段できたんだよ。」
頬を紅潮させ、髪に汗を滴らせ、それでも報告に余念がありません。
「おめでとう!じゃあ、今日は跳び箱記念日だ!」
「うん!」・・・遠ざかっていく児童を見つめます。

お片付けだって渾身で!

露伴の言葉が蘇ります。
お前は力をもっと出せるはず。骨惜しみするのは醜だ。渾身でかかるものには美があるのだ・・・。
挨拶しかり。跳び箱しかり。瑣末な日常全てにおいてしかり・・・。
それなのに。
渾身で全てに当たることを恥ずかしいと感じ始めたのはいつからだろう。
「何あの人・・。」誰かに後ろ指刺されるような、馬鹿にされるようなそんな恐怖を持つようになったのはなぜだろうか。
幸田文の文章によって蘇った露伴の言葉が、体育館に仁王立ちするデザイナーの声で再生されます。
「からだごとかかれ。満身の力を籠めてする活動は美しい。できる。できる!」
うざい、めんどくさい、あの人変。そんな言葉を浴びてもなお、私は渾身の美しさを信じ続けます。朝の挨拶で、体育の授業で、出会った児童の表情が私に信じる力を与えてくれます。