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【日々の記録】大人と子どもの境界線

皆さん、こんにちは。
朝起きて、眠い目を擦りつつえいやとカーテンを開ければ、うっすらと雪景色。
「えっ、雪。」
侘しい独り住まい。伝える相手はないけれど、思わず声に出してしまいます。大きな独り言。きっと私同様、声をあげてしまった方も多いと思います。
「えっ、雪。」でも、「あっ、雪。」でも文言は構いませんが、今皆さんの頭の中で、このセリフはどんな声色で再生されたでしょうか?
いかにも面倒だという声色で再生された方。あなたの心は子供の頃の瑞々しさを失っています。残念!
・・というのは半分冗談ですが、大人と子どもを区分する方法の一つとして、雪景色に心がときめくかどうかというものがありそうです。
皆さん、思い出してみてください。幼少期、天より舞い落ちる雪を一心に眺めたあの胸の高鳴りを。一面の銀世界、靴を履くのももどかしく、表に駆け出したあの興奮を・・・。
それがいつの間にやら、雪の予報に明朝の煩わしさを憂い、交通の混乱に心を乱し、雪掻きの責苦を思い天を仰いで悲嘆する・・。そう、私たちは、幸か不幸か大人になってしまったのです。
もちろん、大人になっても降り積もる雪に、あたかも犬の如く庭かけ回る方もいるかもしれません。しかしながら、「雪が好き=子ども、雪が嫌い=大人」、この図式に納得してくれる方が大半かと思います。
御多分に洩れず私も、雪道を鬱陶しく思いながら車を走らせ、ゆめの森にやってきました。そしてまた、御多分に洩れず子どもたちはうっすらとした雪景色に興奮した面持ちでずんずん学校へ向かってきます。

ほれ、すべって頭をぶつけるな!

「ねえ、きて!ここ歩いてみ。ほら!」玄関前に積もった雪に小さな足跡が点々と付いていきます。「危ないよ!ほら転ぶ!」こちらの注意も馬耳東風。スケートの真似事をしてみせる児童もいます。どの顔もほっぺを真っ赤にして楽しそうです。まだまだ欠席の児童も目立ちますが、登校できた児童たちには雪は素敵な遊び道具になったようです。雪という同じ事象に対し、大人と子供でここまで正反対に対応が分かれると、もはや清々しい心持ちです。

雪だるまにゃ、雪が足りんわ。

4時間目、授業の前に1年生がなにやら着込んでいます。
「あれ、生活科の時間だよね?どこいくの?」と尋ねれば、
「なんかね。外で雪遊びすることになったの。」と正ちゃん帽を目深に被って児童が答えます。えっ?また遊び?・・ご心配なく。これも「ふゆをたのしもう」という1年生の生活科の単元なんです。担任のデザイナーに尋ねれば「雪や氷を生かして遊びを創り出す面白さに気付いたり、季節の自然を生かして生活を楽しくする工夫」を学ぶことを目的にしているのだそう。ちょっと様子をのぞいてみたら、あらあら、デザイナーが趣旨を説明するまでもなく雪合戦が勃発しています。子供同士で投げ合っていた雪玉は、次第に大人を標的に、容赦無くぶち当たってきます。「いやー。やめてー。冷たい!」デザイナーの黄色い悲鳴。児童たちはやんやと囃し立てます。
「堪忍してやって。」見かねて声を掛ければ、今度は雪だるま作りです。
「なかなかまるまんない。」粉雪相手に苦戦しています。うっすらとしか積らなかった今回の雪では、十分に雪だるまを肥えさせることはできません。それでも手のひらサイズの雪だるまが完成し、昇降口横に鎮座しました。
しばらくの間、雪に夢中になっていましたが、やはり人の子、冷たさに耐えかねて、三々五々児童たちが戻ってきます。
「つめてー。」「手がいてー。」口々に不平を漏らしながも、顔はニコニコです。「ねえ、さわってみ。ほら。」児童が赤くかじかんだ手を差し出します。「!」まるで氷のようです。どうやら手袋もつけずに遊んでいたようです。まだ病み上がりの児童もいることだし、途中で室内に退散したのでした。

次はなにして遊ぼーか。

「主体的」とか「主体性」という言葉を職員会議で何度も耳にします。「あの子は主体性を持って取り組んでいるか。」「主体的な学びになっているのか。」と。つまりデザイナーたちは、日々この「主体性」「主体的」をめぐり奮闘しているようです。
4時間目を振り返ります。身内贔屓の様で恐縮ですが、今日の生活科単元の授業は、まさに主体性を持って取り組まれていました。
「だって、遊んでいたんでしょ?」
それでも意地悪な半分の自分が、半分の自分に苦言を呈します。そうです。遊んでいたんです。でも、「遊び」は常に主体性に満ちています。無理やり、強制的に「遊ばせること」はできません。「遊んでいるよう振る舞いをさせる」ことはできるかもしれませんが、もはやそれは「遊び」とは別物です。
効果的に学ぶことの入り口には、常に「遊び」が隠されています。「遊ぶ」ことの延長に「学び」があり、「学び」の応用にまた「遊び」があるのかもしれません。
きっと私だって「遊び」を通して多くを学んできたはずです。それがいつやら、「学ぶこと」を義務のような、苦役のような捉え方に変わり、受験を迎え・・。
「遊ぶこと」と「学ぶこと」。この二つを別物として考える様になること。これも「雪」同様大人と子供を区分けする、一つの方法と言えそうです。
おかげさまで、私の体は立派な大人になり仰ました。でも心の瑞々しさは保ち続けたい・・。雪から派生して、「不老」を願う1日となりました。

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