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【日々の記録】掃除=魂を磨くこと?

皆さん、こんにちは。
「掃除すること、洗濯することはすなわち、魂の浄化である。」
今は昔の学生時代。高野悦子の「二十歳の原点」という本に刺激され、私も日記を書いていた時期がありました。上記は私が綴った一文です。拙く、青臭く、顔から火が出そうです。

しかし満更でたらめとも言えません。
溢れんばかりの自意識をどこにぶつけたら良いのか、悶々としたあの時代。生活は荒み、小さなアパートは、まさにゴミ屋敷と化しました。
ある日ついに「なんでもや本舗」に依頼し、溜まりきったゴミを一掃。
久方ぶりに綺麗になった一室で、上の一文をしたためた次第です。

浄化された魂が、その後無事健全な生活を送れたか否かについては、また今後の記事にゆずるとして、少なくとも今現在、私の住まいは綺麗だと断言できます。
「部屋は心のバロメーター」。私の体験談を持ち出すまでもなく、よく言われることです。心が健全なときは、部屋の整理整頓がなされるし、逆の時は、部屋も乱れると。つまり、現時点では、私の心は健全だと言えそうです。

さて、ゆめの森はどうでしょう?
日々の児童生徒の言動ではなく、取り巻く環境の美化的観点から眺めてみましょう。正直、放課後、顔を顰めたくなるような光景に出会うこともあります。

5時間目。
ゆめの森全員で校内を点検します。誰がやったかのような「犯人探し」は置いといて、みな一様に目を皿のようしてあちらこちらを眺めています。
「あ、ここ汚ーい!」
「ねえ、ここに足跡つけたのだれ?」
まだ真新しい私たちの学び舎。しかしよく見ればそこかしこ汚れが目立ちます。
特にロッカーは、明暗が分かれます。中には紙屑、拾ってきた石ころ、上履き、教科書などが一緒くたにぐちゃぐちゃに詰め込まれている人もいます。

理科室は物がたくさんあるけど・・・

「汚い!」「ひどい!」「誰がやったんだ?」
ひとしきり騒いだ後、さてここからが本題です。
デザイナーが児童生徒に語りかけます。
「どうだった?結構汚かったよね。ここは誰の学校?みんなの学校だよね?誰がやったか探すより、もっと大切なことあるんじゃない?」
児童生徒が一斉に声を上げます。
「掃除するー!」
「みんなできれいにするー!」

思いが一つになったところで、早速「大掃除」の始まりです。
箒ではいて、ホワイトボードは水拭きして、鉛筆汚れなどはスポンジで擦って落としていきます。普段の掃除の時間では、箒でチャンバラごっこもよく見る光景ですが、今回は皆一心に掃除に取り組んでいます。
「私、こっちやるから、床をお願い!」
「あ、俺、ここきれいにするから、バケツと雑巾持ってきて。」
声を掛け合い、サクサク順調に掃除が進んでいきます。

よ~く見ると何かの跡がついています
生徒フォーラムは・・・
何かを引きずったのかな?
どんな汚れがあったかを共有中
こするとキレイになりました
思ったより汚れてました

小1時間もたったでしょうか。
全員の協力のおかげで、細かいところまですっかりきれいになりました。
みんな息を弾ませて、ほおを紅潮させて満足顔です。
中には「もっとやりたい。」だとか、「明日もやりたい。」との声も。

自分の目で確認して、自分の手を動かして、足腰使って雑巾掛けして、ようやく校内美化が「自分ごと」になったようです。
一度きれいにした校舎。次はなるべき汚さないように使いたい。
そんな声がちらほら聞こえてきます。
校舎をきれいにすること以上に、校舎をきれいに保つ工夫をすることの大切さに全員が気付いたようです。
やはり、「掃除することは魂の浄化だ。」
私は一人頷きます・・・・。

きれいを保つ工夫を出し合う。

ここまで書いて、ふと不安が掠めます。
「社長が早朝会社のトイレ掃除をする。」そんな訓話を時々耳にします。
ある種の美談だと思います。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を体現するような素敵な話だと思います。しかし、臆病な私はそれを手放しに賞賛し、喧伝しようと思いません。その手の美談が、この令和にそぐわなくなっている空気を感じているからです。冒頭の「掃除することは、魂の浄化」などの文言も、どうやら庭訓としてひっそり胸に収めた方が良さそうです。仮に声高に唱えれば、意識高い人からは「前時代的!」と、ズボラな方々から「我々の魂は不浄とということか!」とたちまち謗りを受けそうです。
ゴミがあっても、整頓できなくても、生活できればいいじゃない。
「きれい」「汚い」の判断基準は人それぞれ。みんな違ってみんないい!

・・・・美化活動から大きく脱線しましたが、最近「多様性」の名の下で、生きにくさが増幅しているのではないかとの皮肉を感じる今日この頃です。