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「おはようございます!!」
大きい声が本の広場から響いてきます。
力強い声に共振して大きな校舎が揺れるようです。
声の出所を辿れば、縦横に見事に育った欅の大木の如き一人の紳士が、ニコニコと子供達と向き合っています。
そうです。音楽家関口直仁さんが、学び舎ゆめの森にやってきました。
はて?関口さん?
そんな読者諸氏にご紹介申し上げます。

音楽家 関口直仁(せきぐち・なおひと)
作曲家、音楽監督、バリトン歌手。岩手県生まれ。東京藝術大学音楽学部声楽学科卒業。大学在学中より声楽家としてオペラや宗教曲でソリストを務める一方で、小澤征爾オペラ・プロジェクト、リッカルト・ムーティ指揮のオペラ「仮面舞踏会」に参加。また、作曲活動、音楽講師など多方面で活躍中。

「きおくの森の子どもたち」より

ここ学び舎ゆめの森ではオリジナル楽曲の作詞・作曲をはじめ、演劇の音楽監督を担っていただいています。「種を蒔こう」「私が始まる場所」「探しにいこう」・・。曲名を書き連ねるだけで、耳の奥に彼の美しい旋律が蘇ってきます。

熱く、力強く、関口さんの言葉が押し寄せる

関口さんが子どもたちに問います。
「みんな楽器って知ってるよね?ピアニストはピアノを、バイオリニストはバイオリンを、そう楽器を使って音を出す。じゃあ『歌を歌う』ときは、どんな楽器を使うかな?」
「ん・・・楽器?」
「・・からだ?」児童たちが答えます。
「そうだよね。歌を歌う時、僕らにとっての『楽器』は僕らの体なんだ。」
子どもたちはまだポカンとしています。
「ピアノをよく知らなかったら、ピアノは弾けない。バイオリンも同じ。そして、歌も同じなんだよ。自分の体をよく知ることが、豊かな音を作るんだ。」
歌うためにまず自分自身のからだを探究する・・。
知見に裏打ちされた言葉に、赤べこのように何度も頷いてしまいます。

早速関口さんのレッスンが始まります。
関口さんの言葉に誘われ、普段あまり意識しない「体の中」に注意を向けてみます。
声を出す時、体の中のどこが動くのか、体のあちらこちらに手を当ててみます。
「この辺が大きくなる。」鳩尾あたりに手を添える子供がいます。
「大きい声を出すとこの辺が疲れる。」足の付け根あたりをさする子どもがいます。体の構造は同じでも、その使い方にはやはり個性(癖とも言う)があるのでしょう。
今度は、重い物を持ち上げながら声を出してみます。
「せーのー、よっ!」
次に最後の音を伸ばしてみます。
「せーのー、よーーーー」
「どう?何か違いはあったかな?」
関口さんの問い掛けに、それぞれ新しい発見を口にします。
体の中に意識を向けることで、どうやら今まで気付かなかった「新しい自分」に出会えたようです。私自身も大きく息を吸って声を出すたびに、自分の薄皮がペリペリと捲れた感じです。

ゆめの森の人気者は自作の太鼓で「表現」を楽しむ
豊かな知見に裏打ちされた指導

最後はティッシュを使っての「息息(イキイキ)バレーゲーム」です。
1枚のティシュが落ちないように、数人で息を吹き上げます。もちろん手は使いません。どれだけ長い時間ティッシュを落とさないでいられるか、その時間を競います。
「レディーゴー!」
児童生徒が一斉に力一杯息を吹き上げます。
口を尖らせ、顔を赤くしてみんな奮闘しています。
「あー、疲れたー。」
息を弾ませながらも、一様に笑顔です。
楽しみながら「声」を通して自分自身の体を探究する1時間となりました。

グッチ先生のまわりにあつまれ!

最後にもう少し・・。
文章の中で一口に「木」と表現しても、その「木」はどんな葉の形なのか、樹形、幹の様子など細部にわたってイメージが頭の中にあるかないかによって、文章の説得力が俄然変わってくる・・・。確かそんなことをある作家が書いていました。
文章に限らず何かを「表現する」ことにも同じことは言えそうです。
「何か」を知悉することで表現はより確かになります。
この世界というものをより鮮明に捉え、それを自ら表現し、伝えつないでいくためにはやはり知悉すること、つまり「知識」が必要です。新しい世界の扉を開く鍵は、常に「知識」です。
学校の本分はその「知識を得ること」であり、それがすなわち「学習」なのです。
・・ただし、「知識」と言ってもそれには「生きた知識」と「死んだ知識」があります。その二つの違いを精査する事なく、従来の教育を一方的に「知識偏重主義」と断罪したり、中には「もはや知識はいらない」と性急な結論を下すことは甚だ危険と言わざるを得ません。

関口直仁さんの音楽が、人の心を打つのは、彼の感性以上に豊穣な「知識」によるところが大きい。私はそう思います。