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【日々の記録】「ストーリー」と「ナラティブ」

皆さん、こんにちは。
以前、12月22日付のnote「掌上のいのち」とのタイトル記事に、大笹農場訪問の顛末を書きました。あの時譲り受けた10羽の雛は、紆余曲折を辿りながらも、無事成鳥となり、本日いよいよ出荷の日を迎えました・・。

始業前、寒風吹き荒ぶゆめの森農場。鶏小屋前で児童生徒が騒いでいます。
今までみんなでお世話した鶏を見送るため、集合したのです。
「寒っ!」「風つよ!」「あ、みて。こおり。」
児童たちの尽きぬ興味関心は、ある意味残酷です。
数名が手持ちのipadで鶏の姿を撮影していますが、多くの児童は鶏以上に強風や、氷に興がそそられているようです。
自身の運命を知ってか知らずか、小屋の隅に体を寄せ合う鶏と、風に吹かれて走り回る子どもたちとのコントラストにツンとするような感傷が襲います。

大笹農場の髙橋さんがお手本を見せる。複雑な表情で見守る児童生徒。

「本当の『いただきます』が言えるようになりたい。」
そんな動機から始まったこの取り組み。
過去の記事「掌上のいのち」には、この取り組みに対する願いを書き綴りました。いわく「試練を与えたまえ」「哲学に昇華する」「妥協、逃避、放擲のもたらす決断には、大人は断固反対するべき覚悟が必要」などなど。
湯気の出るような火照った筆致です。
・・・あれから2ヶ月。
あの時の火照った願いは成就されたのかと問われれば、・・正直答えはNOです。
もちろんこれは私の感想であり、学校全体を総括した意見ではありません。
また、私は学校の取り組みに対し「いい」「悪い」を断じる立場ではありません。
しかし、率直な私の気持ちは、やはりYESではないのです。

私があの日、掌上のいのちからイメージしたものは、もっと起伏の激しいものでした。
私があの日、請い願った試練とは、もっと「ドラマティック」なものでした。
「雨降って地固まる」の如く、汗と涙と無数の議論に裏打ちされた「強固な結論」を望んでいたのです。
しかし、現実は恬淡としています。
私自身、日常に埋没し、全てが場当たり的になりました。
目の前のことだけに執着し、「大きな雛の存在」は、やがて頭の中心から追いやられ、ついには無関心に近い状態であったことをここに告白しなければなりません。
くどいようですが、これは私のことであり、学校全体がそうであったと言いません。ですが学校の一員たる私がこの状態だったのです。
「あなた一人の問題でしょう?」
そんな批判があるかもしれません。「無関心に陥ったのはあなた一人であり、他は全く違っていた。」と。
わかります。おっしゃる通りかもしれません。
ですが、厚顔無恥にも先を続けるならば、「無関心」を産む余地のない熱烈な「ストーリー」を私は期待していました。あの時の激情からしたら「当てが外れた」というのが正直なところだったのです。・・・誇大妄想、そんな冷笑が聞こえるようですが、これが私の真実だったのです。
子どもと鶏のコントラストがもたらしたツンとするような感傷の正体はだいたいそんなところです・・・。

そせぞれの思いを胸に1羽1羽カゴに入れていく。
え?このカゴに7羽も入れるの?キツキツじゃん!

朝に戻ります。

しばらくして、風の中を1台の軽トラがやってきました。
大笹農場の髙橋さんです。
再会のご挨拶の後、みんなで出荷用のカゴに鶏を一羽一羽納め、軽トラの荷台に乗せました。
「さてと・・。」
髙橋さんが、話出します。
「1羽も死んでしまうことなく、本当によく育てましたね。すごいです。」
「羽も抜けてないし、いい状態です。ニワトリも幸せだったんじゃないかな・・。」
「この後、午後には本宮の工場に到着します。・・んで、・・・」
じっと荷台に注がれる多くの瞳を意識してか髙橋さんが口をつぐみます。

「髙橋さん、本当にいろいろお世話になりました。ありがとうございました。」
児童生徒全員でご挨拶します。
車に乗る直前、髙橋さんがぼそっと私たち大人に漏らします。
「カゴに入れられた鳥はね、やっぱり観念するのか、悲しそうな顔するんですよね・・。まあ・・鳥じゃないから、ほんとのところはわかんないけど・・。」

無事荷台に乗せて・・、しばし沈黙が訪れる。

「ありがとうございました!さようなら!」
軽トラが出発します。
刹那、
一人の児童が咽び泣き出しました。
先ほどまで陽気にはしゃいでいた児童です。顔に手をあて、声をあげて泣いています。しばし、風の音に混じって咽び泣きの声が辺りを包みます。
すると、他の児童がそれを徒に詮索することなく、黙って彼の肩に手を置きます。それに続いて、また他の児童が背中にまわり、彼の体をさすります。
寒風の中、また一人、また一人、咽ぶ児童をそっと取り巻いていきます。
遠巻きにそれを眺めている児童も何とも言えぬ表情をしています。
と、突然、
「おいしい肉になれよー!」
頓狂な声が、沈黙を破りました。
それをきっかけに、「さようなら、さようなら。」
堰を切って子どもたちが叫びます。
たくさんの声が軽トラの後を追っかけていきます。
「さようなら。さようなら。」

「鳥じゃないから、ほんとのところはわかんないけど・・。」
髙橋さんの言葉同様、私に児童生徒一人一人の心のうちはわかりません。
しかし、10羽の鶏を見送る彼らの心に何か大きなものが去来したことは確かなようです。

「『ストーリー(story)』と『ナラティブ(narrative)』は全然違う。教育にストーリーは必要ない。ナラティブが必要なんだ。」
かつてゆめの森に在籍したOデザイナーの熱弁を今日、改めて思い出します。
「ナラティブ」・・あまり馴染みのない言葉ですので少し引用を載せます。

「ストーリー」と「ナラティブ」の違い
「物語」の意味をもつ「ナラティブ」だが、同様に物語を意味する英語「ストーリー」とは少しニュアンスが異なる。
ストーリーは、物語の筋書きや内容を指す。主人公や登場人物を中心に起承転結が展開されるため、聞き手はもちろん語り手も介在しない。一方ナラティブは、語り手自身が紡いでいく物語とされている。主人公は語り手となる私たち自身であり、物語は変化し続け、終わりが存在しない。
つまり2つの言葉の違いは、「主人公が誰か」「完結しているか」という点にある。ナラティブは一人ひとりが主体となって、より自由に語られるイメージを持つ。感情や会話なども含む、広義的な意味での物語と捉えられる。

「エレミニスト」ニュース記事より

私が勝手に描いた熱烈なストーリー。
現実はドラマとは違い、恬淡と過ぎていきます。
しかし、その中で確実に一人一人のナラティブが紡がれていきます。

大人がストーリーを準備すればするほど、子供のナラティブは削がれていく・・。
手前勝手な壮大なストーリーをこさえ、この取り組みを悲観していた私・・・。
しかし、耳をすませば確かに、彼らの中に豊な物語(ナラティブ)は紡がれていたようです。前言撤回。反省反省。

今日の児童の様子から、思いかけず久方ぶりに、柔和でいて、でも時に辛辣なOデザイナーの顔を思い出しました。

みんなにも読んでほしいですか?

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